明宝村史より
●松根の乾溜
昭和18年から、布市の組合倉庫に蓄積された粉炭で角形の炭団を製造していたが、19年になると松根油供出の要請があり、村内各地で掘り出して運びつけられた松根(あかし)を、布市の種付所の広場で乾溜することになった。炭団・松根乾溜の仕事は、専ら足立忠次郎(明治38年生、故人)の手で進められたので、以下、その談話のあらましを記す。 「昭和18年に、本町の天野さんから話しがあって、奥明方村の布市の倉庫で、組合の炭団を造ることになりました。...中略... 炭団を1年半ほど造ったところで、今度は松根油を取る仕事をやることになりました。19年の秋暮れに、調練川原でそのやり方の講習がありました。奥明方からは、わたしと和田徳重郎さと二人が行ってみてきました。種付所の前の広場へ、窯を二つ並べて、徳重郎さが主になって築かれました。わたしはその後一人で乾溜の仕事を引き受けてやりました。村中から持ち込まれる松根(あかし)を、毎日、五人ぐらいずつ出る人足衆に、手ヨキで、細かく薄くつだんでもらいました。二つの窯に掛ける乾溜用の鉄製の缶は二つあって、それは直径1m、丈が1.5mばかり、蓋は留め金で留め、用心に泥を塗ったりしたもんです。底のところにタ-ルと揮発した軽油の出る口があり、この二つの出口に接続した鉄管を一つにまとめて冷却水槽へ入れるわけです。タ-ルと軽油分は、二つに分かれて、タ-ルがまず流れ出し、末端から軽油が出ます。水槽は1.5m四方ばかりのもので、井川の水が始終入れ替わるようにしました。缶いっぱいに収まる鉄製の籠があって、これにつだんだあかしを詰め、チェンで缶の中へ吊りおろし、蓋を締めたら窯に火を入れ、熱が缶の周りを包むように焚くんです。朝から夕方まで焚けば、あかしは炭になってしまい、一日に二つの缶から軽油が五リットル、タ-ルが十リットルぐらい取れましたな。缶は翌日までそのままにしておいて、蓋を開けると半分くらい炭が残っていますから、それで窯を焚いたんです。準備に一日かけて、一日おきに窯を焚いて、ようやく調子が出たと思ったころ終戦でしたな。しかし、せっかくのあかしがもったいないとゆうことで九月ごろから、その年の暮れまで、金沓屋の八十まと二人で続けました。さてな、油を組合でどうされたやら、いっこうに覚えとらんがな」

終わりに
当時、「全村をあげて松根赤たすき」、「掘って蒸して送れ」又「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」等のスロ-ガンに代表され、総動員をかけて、一大国家プロジェクト「松根油緊急増産運動」にて集められたこの松根油を、航空機に使用したという公式の記録は残っていない。ただここ明宝村立博物館の入り口にでんと松根油缶が相変わらず我関せずと居座っている。記録によればこの乾溜缶は全国で約37,000基まで用意されたとのこと。果たして今何基あるのやら。
参考文献
- 明方村史
- 徳山空襲・松根油工場の記録(徳山空襲のビデオをつくる会)
- 埼玉県平和資料館ホ-ムペ-ジ
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