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伝説のテクノロジー

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手描きの鯉のぼりづくりに挑戦し続けてきた50年

鯉のぼり職人 橋本 隆さん

手描きの鯉のぼりは絶滅危惧種?

 埼玉県の加須(かぞ)市は鯉のぼりの産地として全国的に知られている。橋本さんが3代目の経営者として引き継いでいる橋本弥喜智商店も1908(明治41)年の創業以来、手描きの鯉のぼりづくりを続けていた。しかし、1960年代になると、化繊の生地に絵柄を印刷した鯉のぼりが版図を広げていた。木綿の生地に手間暇かけて絵柄を手描きする昔ながらの鯉のぼりより、大量生産できる印刷ものの方が高い値を付けられていた。加須でも、この頃手描きをつくっていたのは橋本弥喜智商店だけになっていたほどだ。

 手描きの鯉のぼりがほとんど売れない状況に、2代目の経営者で橋本さんの父親の橋本初雄さんはついに、印刷ものもつくることにした。橋本さんが入店したのは、ちょうどその頃のことだ。

 幼い頃から絵が好きだった橋本さんに、初雄さんは「印刷用のデザインを考えろ」と命じた。そこで橋本さんはケント紙をつなぎ合わせ、烏口を使ってデザインを考えた。あとはそれを専門業者に渡して印刷するだけ。当時7~8人いた鯉のぼりづくりの職人は、毎日暇を持て余すようになってしまった。

 そんなとき初雄さんが亡くなり、橋本さんは入店後わずか2年で3代目の経営者となった。ときは高度経済成長期。都会の企業から誘われて、職人はひとり、またひとりと櫛の歯が抜けるように減っていった。

 「このままうちがやめたら、手描きの鯉のぼりは世の中からなくなってしまう」

 橋本さんの胸にそんな疑問が浮かんだ。ただ、橋本さん自身は、祖父からも父からも、手描きの技法を教わったことがなかった。そこで一計を案じた橋本さんは、職人ひとりずつに3メートルの木綿生地を渡し、こう提案した。

 「自分の好きなように鯉を描いてください。そのかわり、100年後の人が、『こんな素晴らしいものがなくなってしまったのか、もったいない』というような鯉を頼みます」

 その瞬間、どんよりとしていた職人たちの目が輝きを取り戻した。「好きなように絵を描いていい」などと、それまでは言われたことがなかったのだ。

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